藍絵の猪口
一
語ろうとするのは、主に肥前の諸窯で出来た藍絵染附の猪口である。
わけてもこれ等のものは私にとって思い出が深い。親んでから、もう長い
歳月が過ぎる。私が器物の美しさに誘われたのも、これ等のものが最初の仲
立ちであった。器物への驚きはこの時から始まったのである。私の貧しい蒐
集もこの猪口から物語を起こした。そうして器物を用いることに興味を覚え
出したのも、この可憐な焼物からであった。模様の世界に不思議を感じ出し
たのも、その様々な絵のお蔭である。染附の美しさもここで学ぶことが出来
た。もうやがて二十年近くにもなるであろうか。それ以来私の家庭からこの
猪口が離れた時はない。私の家のどの客もそれを記憶するに違いない。私達
の子供も亦大方そのことに一生思い出を抱くであろう。乳に茶に今も日々の
相手である。
二
日本の呉州染附では中でも伊万里の雑器が美しい。猪口はそれを代表する
ものの一つである。私はここに日本の染附の最も美しい閃きを感じる。個人
的に云えば私はあの有名な官窯の鍋島や平戸などより、遥かに民器であった
これ等の猪口をとりたい。如何に絵が自由で活々していることか。線も冴え
「だみ」も豊かである。日本の藍絵染附ではこういう雑器類が一番である。
染附と云えば誰も明のものを想起する。その偉大さは真に犯し難い。皆鋭
くして強い。だがそれだけに親しさを欠く恨みがあるとも云える。日本には
何があるであろうか。私はこの下手な器物があることを、どんなに気丈夫に
思うであろう。これがあれば日本の染附を語れる。泉を朝鮮や支那に発した
ものではあるが、よく日本のものに成り切っている。その固有の美しさに就
いて又親しさに就いて私に迷いはない。おそい歴史家の歩みも、いつかその
美しさを見返すであろう。それは小品の世界ではあるが、如何に見厭きない
景色であることか。この事実を何より数多くの品物が物語ってくれる。
三
猪口には殆ど文献がない。みじめなほど存在しない。染附としてこんな美
しいものをと私達には想えても、今まで誰の筆にも上がらなかったのである。
語義への考証は多少あるが、知識の多い近代の史家もこの器物には無言でい
る。それ故私達はその歴史に関して一切の書物を見限らねばならない。まし
てその美しさを進んで説いたものは見当たらない。理由は大方それが著名な
人の作ではないからによる。又誰の作だか分からないからである。だが私達
はそういう物指しを早く棄てて了おう。雑器であるから注意されないなら、
私達は寧ろ雑器であるから注意しようではないか。だがそんな論義は二の次
でよい。私達は物にぢかに行こう。物がよければ、物で語りたい。それより
正しい又自然な出発はない。有名無名は、物への最後の尺度としては力が弱
い。
四
猪口には色々な不思議がある。他の焼物では見られない性質がある。読者
はそのことに気付かれたであろうか。
第一「猪口」という名称から不思議ではないか。「ちょこ」は訛に過ぎな
い、「ちょく」という方が正しい。だが猪口とは妙な漢字である。字から解
いて猪の口に似ているからと云っても通る説ではない。もともと字義に迷う
のが間違いである。実は単に音を借りて来たまでに過ぎない。語原は日本で
はない。日本にそんな言葉はない。昔からこのことは留意されたが、浅川の
『朝鮮陶磁名考』はその由来を一番はっきりさせてくれる。「猪」は「鍾」
と音が通じ、猪口は鮮語の「鍾甌」"Chyongku”から来ている。鍾子、鍾鉢、
茶鍾などいうが、「鍾」は何れも湯呑風の形をした焼物の謂である。この証
明で意味が全てはっきりする。鮮語の音を只字で当てたというに過ぎない。
猪にも口にも意味はない。(一説には猪の支那音Diok の訛ともいうが、私
は採らない。)
肥前の磁器が李参平から生まれたというのは通説である。それが嘘である
が誠であるか、この場合どちらでもよい。昔沢山の鮮人が入って仕事をした
だけは確かである。その地方に鮮語が数多く入ったのに別に不思議はない。
なぜ「ちょく」と呼ばれて今も伝わってきたか筋が分かる。(こういう場合
は他にもある。「徳利」という名称も同じ歴史を踏む。何も瓶(貧)の音を
嫌って、目出たい「徳」の字を選んだのではない。之も浅川は、Tokkeureut
(甕器)から来たろうという。甕 Tok は鮮語で瓶の謂で吾々のいう徳利で
ある。)
猪口は言葉で鮮語と繋がりがあるが、作り手も鮮人の血を承いだものが多
いであろう。従って染附の画風もお互いに有縁の間柄である。「ちょく」な
る和風鮮語は早くもその器物の性質を暗示する。
五
当時これぐらい重宝な器物も少なかったのである。用途は自在であった。
普通「蕎麦猪口」と呼ぶから、蕎麦又はうどんなどの汁入として使われたの
はいうまでもない。蕎麦は殆どどの国にもある庶民の食物であるから、蕎麦
のあるところには蕎麦猪口があった。だがこの呼び方で猪口の役が終わって
いたのではない。食物のえり好みは無かったのである。或る時は水呑にも湯
呑にも亦茶呑にも変わったのである。それ所ではない。宴が酣になればしば
しば盃の代わりをすら務めた。酒に浸る田舎の上戸にはこれほどの量が入っ
てこそ都合がよかったであろう。だが飲物への奉仕ばかりではなかった。向
附として膳の上に座ることも度々である。うま煮、あえ物、煮豆、香物など
など、この中に納ることがしばしばである。「猪口にはあえもの等をもる」
と『守貞漫稿』にも記してある(第28編食類)。所謂「お壷」の役をこれ
が果たした。薩摩の方言で猪口を「のぞき」というが、何かそんな感じがあ
る。形深く物を容れる器である。何しても時に応じ物に応じて自由に役割を
変えた。こんな便宜な器物は他に無かったのである。家毎に好んで使ったの
も無理はない。磁器では代表的な雑器である。雑器という呼び方は猪口に似
合う。
六
この焼物は孤独を嫌う。一つの宗団のようにいつも仲間で集まる。この社
会では器の単位が十で数えられた。一人離れて生まれることはない。又一人
で働くことも殆どない。又誰もこれを一人では傭わない。それは講中のよう
に又一家族のように集まる。庄屋や寺や社で働く時は五十が一組、時として
は百にも及んだであろう。猪口は数ものである。
当時は社会の状態が違っていたのである。今よりずっと生活が協同であっ
た。だから寄り合って食事をとることがしばしばであった。村でも町でも祝
いの時法事の時、又祭りの時、いつも大勢の者が集まって来る。そんな場合
になくてはならないのは猪口であった。揃いものとして作られてこそ役立つ
のである。皿とか碗とか、これも数ものではあるが、猪口はそれ等のものの
筆頭であった。こんなにも一種の器物が数多く作られたことはない。猪口は
一つの社会をなした。
七
同じような姿であるから、何か一郷里に生まれた或る一家族に過ぎぬと思
われるかもしれぬ。併しそうではない。猪口には不思議にも狭い地理がない。
訪ねると肥前の殆どどこでも焼かれたのである。就中、松浦郡から彼杵郡に
かけ、この磁器を焼いた窯は驚くほど多い。南は長崎に近い長与まで延びる、
波佐見などに行くと、窯跡からの夥しい破片は如何にこれ等の仕事が盛んで
あったかを語る。遂には、肥前のみではなく、筑前筑後にも多少は拡がって
行った。交通の乏しい昔にとっては、これは広い地域である。日本のどんな
焼物でも、同じ姿のものが、かくまで多くの窯で焼かれた例はない。近時見
出された夥しい窯跡の数は、この真理を示してくれる。如何にその当時需用
が多かったかを語っている。
それは一窯や一時期の所産ではない。恐らく二世紀近くも多くの作り手が
多くの窯で焼いたのである。だからこの猪口はどの窯の何時頃のものだと断
定することはむづかしい。それほど似たものを多くの窯場で長い時期に渡っ
て焼いた。私達はその美しさを数人の個人に帰すわけにゆかない。それは大
勢の者がかかって育てた美しさである。互いに知らない幾百の職人達が、離
れた村々で同じように働いていたのである。私達は美の秘密をこういう領域
に於いても説かねばならない。
八
猪口は非常な旅行好きである。日本のどんな器物でもかくまでに遠出の旅
はしない。日本廻国の行者ですら、彼等ほど隈なく歩きはしなかったであろ
う。それも皆講中で出掛ける。一人で遊行する場合はない。多くは故郷の港
伊万里から船出して、津々浦々に立寄ってゆく。そこから或る者は三々五々
奥地へと入ってゆく。不思議にも地元の西海道はあと廻しであったと見える。
ここには却って順礼の足跡が薄い。旅は中国や南海、山陰や北陸、近畿東海、
進んでは東北、遂には奥羽まで足跡を残した。信州や甲州のような山奥でも
廻り逢うことがしばしばある。どんな器物でもこれほどまでに遠出はしない。
身軽な体であったから旅がしやすくもあったであろう。猪口は肥前の猪口と
いうよりも日本の猪口と云った方がよい。
その頃の伊万里の多忙が思いやられるではないか。あの狭い港が荷船で綾
織られたであろう。染附と云えば「伊万里」と呼んだのも無理はない。伊万
里の名は日本国中に響いた。船は旅をたやすくさせた唯一の助けであった。
若し水陸両路の旅の線を地図の上に引くとしたら、幾千里を誇る鉄道や航路
の網より、もっと複雑な跡を示すであろう。交通の不便な当時を思えば、尚
更その旅程に興味を引かれる。
九
だが色々の不思議があっても、中で一番驚くのは模様の変化である。この
猪口ぐらい衣裳持ちは無いと云える。絣や縞もの、友禅や小紋、浴衣地から
晴れ着、大柄小柄、華やかなもの地味なもの、凡て整う。どんな日本の焼物
でもこれぐらい模様好きの品物はない。幾つ衣裳があるか、大方三、四百に
は及ぶであろう。模様は山水や家屋や、木や花や、草や実や、鳥や虫や、実
に様々である。分類したら面白い結果が見られるであろう。ここでも如何に
日本人が自然を友としたかが分かる。中でも多いのは風景や草花や松竹梅な
どであるが、別に縞ものが少なくない。格子縞や矢絣などはよく見かける。
支那の染附には人物や獣がよく目につくが、日本のものには稀により見かけ
ない。文字を記したものも亦少ない。
下絵は画家が描いたのだと説く人がある。或る場合はそうであったろう。
併し現れた絵から見ると原画とは似ても似つかぬものが多い。それは既に工
芸的な性質のものに成りきっている。それは絵画ではなく模様である。もは
や写生的な絵画ではない。いつも図は簡素である。少しも作物を邪魔してい
ない。よい模様の証拠である。(一種の器でかくまで多種の絵附を有つもの
を他に求めるなら、恐らく和蘭陀の敷瓦のみであろうか。只後者が好んで人
物を主題としているのに対し、猪口の模様は殆ど皆自然の風物である。東西
両洋の相違がここにもはっきりと見える。)
十
ここは合作の世界である。力を協せて出来上がったのである。土を練る者、
水引きする者、削る者、描く者、ダミを入れる者、線を引く者、釉掛けする
者、焼く者、大勢がこの小さな器に集まる。多くの場合家族の者達が力を合
わせた。何も一人の力量が産むのではない。否、一人だったらこんなものは
出来にくいのである。それに或る者は賢く或る者は鈍く、或る者は勤勉に或
る者は横着ででもあったであろう。だがそれ等のけじめは此処で消されてゆ
く。人の違いも隔たりもさしたる邪魔にならない。お互いに業を分けても、
作物は結果に於いてよく纏まってゆく。それが誰の作か問う人もなく又問う
要もない。問うたとてそれが美しさの何の説明にもならぬ。問わない方が寧
ろ謎が解けよう。
分業は技を愈々冴えしめた。あの淀みなき線や自由な彩りや、屈託なき構
図の省略や、仕事の早さや又その確かさや、それは一技に腕を磨くお蔭であ
る。そうしてそれらのものが相寄って、一つの製品が組立てられる。合作が
工芸の世界で何を成すか、何を成し得るか、何よりも猪口が雄弁に話してく
れる。なぜ合作でいて統一がとれるか。もともと個性を云い張る者がいない
からと云えよう。又合作だから個性の角が柔らぐとも云えよう。それよりも
時代の状況が人間を結ぶのによい状態にあったと説く方がよいかも知れぬ。
兎も角ここで協力から美が生まれる場合を学ぶのである。
だからそれ等の模様の美しさは個性を離れたところから来る。このことは
誰もが使う雑器として、どんなに相応しい性質であろう。
十一
この種のもの、大きさはほぼ一定している。形にも亦さしたる相違がない。
下細く上に至って開く筒型の碗である。だがその姿には匿れた不思議が一つ
潜んでいる。どんな人でも猪口を見れば細長い形と思うであろう。この判断
に躊躇はない。だがそれは極端な錯覚に過ぎない。実際はどんな猪口も丈よ
り幅の方が広い。口径は常に高さより大きい。それ故実物は細長いどころか、
いたく平たい器である。寸法を測ってみよう。口径二寸五分(7.6cm) 前後
なのに、丈は一寸八、九分(5.6cm) が普通である。時としては三分の一も
丈の方が短い。それなのに私達の感覚は縦に細長い形だという。高台は普通
一寸八分から二寸まで。それ故ほぼ高さと同じである。古いものほど高台の
径が狭い。それ故尚丈が高く見える。
高台は二通りと云ってよい。外輪のほか凡てに釉の掛かっている「輪高台」
と、中央だけ小さな円形に釉を残した「眼鏡底」との二種である。後者は中
期の発達かと思える。何れも平高台に近いが、古いものは削りがやや深い。
極めて稀に無地もあるが、殆ど凡てに絵を描く。前に述べた如く絵の種類
は夥しい。表絵のみのもあるが、大概は簡略な裏絵を添える。習慣で絵の下
にはよく二、三本の横線を入れる。九割九分まで藍絵であるが、たまにはこ
れに色をさしたのがある。後には青磁釉のも拵えられた。
見込みにはしばしば可愛い模様が匿してある。種類はそう多くはない。花
や虫や山水や井桁や、松竹梅や、稀には鳥等を描く。そうして大概輪を描い
てその中に納める。この見込絵のあるものは殆ど皆「眼鏡底」である。だか
らごく古いものには何も描いてない。
口縁に鉄をぬったのがある。「口紅」と呼ぶ。縁に沿うた内側には模様入
のものが沢山ある。横に只線を引くもの、格子を描くもの、雷紋のものなど。
中で多いのは菱型模様である。窯で各々習慣があったものと思える。内側の
模様は中途からの発達であろう。ごく古いものは皆内側が白の無地である。
用いられた呉州は、二等品であったためか、却って色の味わいが渋い。
(因にいう。猪口は肥前が本場であるが、これを真似て後には美濃でも沢
山出来た。概して肥前のより分厚く、眼鏡底で削りの部分が幅広い。)
又猪口に類したものに、幾種かの茶呑茶碗がある。或は側面がやや中くぼ
みのもの、下から上に反って開くもの、腰の丸みあるもの、同じ丸腰でも全
体が平たい形をなすものなど色々ある。時としては縁を波型に削ったのも見
かける。何れも猪口と縁が深く、同じ時代に同じ肥前の窯で焼かれたもので
ある。だがそれ等のものは茶呑や湯呑茶碗で、猪口ではない。その著しい差
異は高台であって、正当な意味での猪口は、凡て平高台である。即ち胴の下
部がそのまま高台の輪になっているのが通則である。
十二
製作された年代に就いて記録したものは別にない。併し享保十三年に没し
た荻生徂徠の著『南留別志』(三ノ二)(百家説林・正篇上巻にあり)に猪
口のことが出てくるから、溯って元禄の頃には既にあったのであろう。降っ
ては安永に出た越谷吾山の『諸国方言物類称呼』(四ノ五丁)にも猪口に就
いての数行がある。文政年間の自叙ある喜多村信節の『嬉遊笑覧』(二ノ下
十八丁)にも語義に関する考証がある。
併し物に就いて作年代を定める唯一の手がかりは、猪口の箱に記入された
年号である。私達は嬉しくもかかる箱に時たま出逢う。それは購入した当時
の日付けである。今まで見出されたものは化政を中心にその前後のものが多
い。明治の始め頃から凋落するから、それより溯る二百年間をほぼ猪口の時
代と定めてさしたる間違いはない。就中化政はその全盛期であったと見做し
てよい。明治始め頃のコバルトの輸入はここでも歴史を汚した。絵も共にす
さみ別物の観を呈する。知識の暗い一面が齎らした悲劇である。他の多くの
手工芸の場合と同じように、明治の二十年頃が歴史の終末である。
十三
外に現れたことへの概略はこれで終わろう。私はその美しさに潜む不思議
に就いて書き添えることを忘れてはならない。第一驚くのは職人達の模様に
対する創造力である。どこからどうしてかくも豊かな変化を捕らえて来たの
であるか。彼等は決して名だたる画家ではない。仕事は伝統を帯びるし、繰
り返しを求める労働の所産ではないか。かかる単調からどうしてこれ等の創
造を捕らえ得たのであるか。何が彼等の筆にかくも延び延びした自由を与え
たのであるか。美術家でない彼等が、どこからそのような美しさを捕らえて
くるのか。私達は美への理解に、違う範疇を持ち出して来なければならぬ。
だがこのことよりもっと大きな不思議が考えられる。それは何か。かくも
多くの窯とかくも多くの職人と、かくも多くの模様とを有ち乍ら、それがな
べて同じ程度に美しいことである。出来栄えに多少の優劣はあろう。職人に
多少の甲乙はあろう。だがどこにも進んで醜いものが無いではないか。どこ
にもいやな病的なものがないではないか。誰が何を描くとも、さしたるしく
じりが無い。これを美の世界に見出される大きな驚きと云えないであろうか。
美醜のけじめが激しい現代の品物と如何に相違する光景であろう。何か社会
の状況に今日と異なるものがあったのである。僅かの人々より、よいものが
出来ない今日とは甚だしく異なって見える。一人の天才から偉大なものの生
れ出ることに祝福があるなら、大勢の者が各々同じ高さで美しいものを生め
ることを更に祝福したいではないか。この世界では一人の者だけがよいもの
を作ったのではない。仕事をした凡ての者が同じ峰まで上り得たのである。
特に工芸のために私はこのことを讃美する。なぜならこのことのみが美を多
に交わらしめるからである。多くの作物に救いが来るからである。そうして
廉きものに美しさが結ばれてくるからである。雑器が救われずして、美の王
国はこの世に来ない。さて、これ等の性質を通覧すると、如何にこの種の品
物が、伝統によって固く支えられているかが分かる。なべてものが生まれる
には二つの道を通ってくる。一つは個人の才能を通し、一つは伝統の助けに
頼る。前者は自力の道、後者は他力の道。猪口のような雑器が、よく美しく
なり得るのは伝統の助けによるからである。自分では力の乏しい職人達に、
尚且つ優れた仕事が生めるのは、全く他力のお蔭である。
伝統は長い時間に渡って、多くの人々の智慧や経験が働いたその集成であ
る。だから奥は深く且つ重みは大きい。こういう力に頼るからこそ貧しい工
人達にも正しい仕事が産めたのである。自からでは小さくとも、伝統に支え
られる彼等は大きい。私達は職人の仕事を侮ってはいけない。それは伝統を
蔑むことに外ならないのである。だが伝統こそは一国の何より大切な持物で
はないか。
十四
今時これ等の染附を描ける人がいたら、一世の天才と仰がれているであろ
う。だが見知らぬそれ等の作者は、歴史に名も留めずに埋もれて了ったので
ある。そうして長い間、使う者も見る者も又土地の者さえも彼等を省みよう
とはしなかったのである。かかる不条理がこの世には繰り返ってゆく。もと
もと名ある陶工であったなら、こんな雑器は作らなかったかもしれぬ。して
みると忘れられてゆくのが彼等の命数ででもあろうか。だが正しい仕事はい
つか光る。美しさを見得る者は彼等をそのままにしてはおけない。見棄てて
はすまないではないか。埋もれてゆく命数を想えば尚情愛が迫ってくる。無
名のそれ等の工人達に、私は尽きない敬愛を贈る。彼等こそは世を美しくし
てくれた人々ではないか。兎も角私は終生私の筆を通してそれ等の弱い人々
の味方となろう。天才の伝記はこれを綴る人が多い。それ故私は代って貧し
く埋もれてゆく人々の仕事に就いて特に語ろう。語るに足りるその業蹟に就
いて、公の認知を得るために語ろう。日本の染附の栄誉を担う者は真に彼等
であることを報らせよう。そのことは私達には既に常識であっても、これを
非常識と見做す人々がまだ夥しく残っている。それ故見棄てられた器物のた
めに私は弁護の筆を尚も続けよう。かくすることは私に与えられた一つの任
務なのである。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:昭和7年初稿・昭和17年訂正単行本】
(出典:新装・柳宗悦選集 第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
編集・制作<K.TANT>
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